鴨社資料館・秀穂舎(しゅうすいしゃ)が開館して一カ月となります。ちょうど本年は、鴨長明が建保四年(一二一六)閏六月八日、六十二歳で没して八百年になります。
『方丈記』を記して四年目でした。その間にも『無名抄』を著しています。『発心集』については、諸説があります。『方丈記』より先とも後とも研究者の意見が異なっています。たしかに、内容からみれば、『方丈記』前後とみられます。
「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、ひさしくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」との書き出しではじまり、なお少し詠み進めますと、
「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりててか目をよろこばしむる。その主と栖と、無情を争うさま、いはば朝顔の露にことならず。或は露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼ見て、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つ事なし。」と、あります。
いずれも、内容的には、人の往く末をえがいていますので人々は無情と読みとるのでしょう。しかし、本文は最も現実的な内容です。長明の生きた時代は、保元の乱、平治の乱、と乱に継ぐ乱そうして、福原へ遷都、大地震、大火、つむじ風等々、社会は混乱のなかで新しい時代が始まろうとする胎動の時代であり、人心が大きく、激しく揺れ動いていた時代でした。そのなかにあって、人々は、どう生きようか、と思いめぐらす時代であったことが察せられます。
建仁元年(一二〇一)、和歌所が再興され長明も寄人(よりゅうど)として活躍していたころの唯一現存する自筆の消息には『方丈記』にえがかれているような不安な文章はみえません。
「御みす七間の内、五間は以前に返し賜い候いおわんぬ。残る所の二間、たしかに給い候いおわんぬ。恐々謹言 正月二十三日 長明」と記されています。伸び伸びとした文字で、迷いや不安を感じさせることはありません。御歌所で生き生きと活動している姿が浮かびます。
今回、この書状も展示しております。