後桜町天皇から後桃園天皇へ譲位された明和7年(1770)ごろ、
上皇のおそばに使えた公卿の唐橋在煕(からはしありひろ)も後桜町上皇の院庁へ赴くこととなりました。
そのころからの在煕の日記、寛政9年(1797)8月1日をみると、一日の月並みの神拝のことなどとともに、庭の鶴を御覧になる。この鶴は下鴨の社司泉亭(いずみてい)某(院非蔵人。称飛騨)が鴨川のあたりで捕らえたのを下鴨の林で養っていたところを召されてこの御庭に放たれたのであった、とあります。
上皇から、「鶴庭に来る」との御題を賜り、参内する人々に詠進を促され、自分も短冊を賜ったので詠進したと記しています。
幾千世をかさねてもみむ洞のうちに
きつゝなれぬる鶴のけころも 在煕
春寒く社頭に鶴を夢みけり
漱石
在煕の歌から一一〇年たった明治四十年(1907)四月六日(土曜)、夏目漱石の記録に「京に着ける夕」執筆、とあります。
このことは、漱石が明治四十年三月二十八日から四月十一日まで、京都を旅し下鴨神社旧社家の家に住んでいた京都帝国大学の狩野享吉宅に滞在投宿いていました。朝、下鴨神社の社頭を散策中に詠んだ句です。
荒 正人著「漱石―人とその作品」の年譜をみると「明治四十年三月二十八日(木曜)午前八時新橋発神戸行最急行。午後七時三十七分京都七条停車場着。狩野亨吉下鴨村四十八番地滞在中宿泊。管虎雄迎える。」「四月十一日(木曜)。午後八時二十分、京都七条発の夜行で出発。十二日(金曜)午前九時新橋停車場着。」と、あります。
下鴨神社は、高野川と鴨川の合流する州、糺の森が神域です。二つの河川と深い森、森のなかには、瀬見の小川、奈良の小川、御手洗川、泉川の清流がながれ鶴がすむには適していたと思われます。平安時代の詩歌にはホトトギスからカラスまで数多うたわれています。