らいでん、と読みます。第八回・建仁元年(一二〇一)十二月十日、式年遷宮のため元暦元年(一一八四)あるいは、建久七年(一一九六)に作成されたとみられる賀茂御祖神社の社頭図の東御本宮の東方、御手洗の池の北方にその社殿が描かれています。いわゆる儀式殿で御祈祷や御祈願、解除(御祓のこと)などがおこなわれる殿舎でした。私幣を禁じられた神社であったため私祭の儀礼がおこなわれていました。
天永二年(一一一一)の生まれで応保元年(一一六一)九月二十六日、第六回式年遷宮(『山槐記』)を奉仕した禰宜・祐直の記録『鴨御祖神殿等事』には、「祓殿」とあります。式年遷宮ごとに造替されていましたが、文明二年(一四七〇)六月十四日、応仁・文明の乱の兵火によって(『親長卿記』)、他の社殿とともに焼亡するなど変遷のあった殿舎です。
その後に再建された禮殿は、賀茂御祖神社御事歴を明治二十七年に集成した記録『御事歴明細調記』には、「禮殿 西向、参籠所也。細殿東北ニ在」とあります。江戸時代初期には、御手洗の池の南方、細殿御所と一対とするため、御所棟の東北方へ移転しています。
さらに、先の『調記』によると「明治十九年四月十九日、比良木社後ニ引キ移。柿葺トナル」と、明治初年の神社制度改革にともない場所を摂社「比良木社」西南の方へ移設して、鴨社神舘御所に替わる殿舎とされていました。
大正三年五月五日、第三十回式年遷宮事業では、内務省の社殿整備事業の一環として、鴨社神舘御所を再建のため楼門外に禮殿殿舎を移設し計画を進められました。結果は、昭和十二年五月一日、第三十一回式年遷宮事業により、行幸啓行在所、勅祭等勅使、内務官、神祇官、地方官等の祗候所として鴨社神舘御所が再興されました。現在所在する殿舎がその禮殿です。その移設時に屋根のみ瓦葺きとなりました。
この殿舎の元は第二十回・天正五年(一五八一)、式年遷宮のおり造替された禮殿で様式は、古風を極めた社殿の形態を保っており、明治四十三年四月八日、特別保護建造物に指定され保存されてきました。
しかし、明治四年、上知令により、賀茂御祖神社の役所でもあり学問所でもあった鴨社公文所まで上知したため、社務所にあたる建物がなく、昭和十二年、第三十一回式年遷宮により再興された鴨社神舘御所の一部を事務棟としていましたが、この程、平成二十七年・第三十四回式年遷宮事業により、社務所が新たに設けられましたので御本宮東方の古来の場所に御祈祷や御祈願のため、新しく禮殿を再現することになりました。
新しい禮殿の構造は、賀茂斎王の斎院御所の構造に準えて構築の計画を進めています。紫野斎院御所は、古代文化研究家の角田文衞博士の研究によって殿舎の位置等は明らかとなっています。しかし、鴨社頭斎院御所については、一部、学術発掘調査以外はまだ不詳ですが、社頭斎院御所の所在及び殿舎の構図様式などは、『後鳥羽院鴨社参籠御所絵図』(『鴨社古絵図展』図録)などの資料によって推測することができます。この『後鳥羽院鴨社参籠御所絵図』は、『鴨社頭斎院御所絵図』を転用したと考えられています。
賀茂御祖神社へ行幸親齋は、延暦十三年(七九四)十二月二十一日、桓武天皇行幸親齋(『日本後紀』等)を初めとして、承保三年(一〇七六)四月十三日、白河天皇行幸親齋のおり、行幸式日の制を定められるなど(『年中行事秘抄』等)また、御参籠御幸の制は、応保三年(一〇八六)、白河上皇より、歴代の院、上皇、法皇は、恒に御参籠御幸され、さらに天禄二年(九七一)九月二十六日、摂政右大臣藤原伊尹関白賀茂詣(『日本紀略』等)以来、歴代関白賀茂詣定例の制が設けられました。また、さかのぼれば弘仁元年(八一〇)、嵯峨天皇皇女有智子内親王を初代とし、賀茂斎院の制など数々の帝政が制定せられ、その都度御所になるのが鴨社頭斎院御所であり、鴨社神舘御所、鴨社細殿御所、鴨社解除御所、そうして禮殿が行在所、あるいは、御座所となっていました。
『鴨社頭斎院御所絵図』が『後鳥羽院鴨社参籠御所絵図』となったのは、恒の御参籠御幸は、鴨社神舘御所が御座所となりましたが後鳥羽天皇は、御在位中、賀茂御祖神社へ行幸親齋になったのは二度。上皇御在位中の御幸は、二十三度でした。うち御参籠御幸は、五度と記録されています。ところが、健保元年(一二一三)三月三十日から三ヶ日の御参籠御幸は、翌月二日の賀茂斎王の御禊と重なり、斎王の御禊は、先例によって鴨社神舘御所が御座所となりましたが、日を次いでの重要祭事であり、後鳥羽院御参籠御幸には、よって鴨社頭斎院御所が御座所となった、と推察されます。
応仁・文明の乱の兵火により、いずれの御所棟も焼亡し再興のないまま退転しましたが、特に必要とされた禮殿と鴨社細殿御所は再興されて式年遷宮ごとに造替されて今日に至っています。
今期、再興の計画は、第三十四回・式年遷宮御本宮西御仮殿の撤去の社殿を禮殿の神殿とし拝所を新造する計画です。その位置は、旧地、東御本宮の東方です。また殿舎については、角田文衞博士の研究論文に掲載されている『紫野斎院の想定平面図』(『角田文衞著作集』4,)「図1」から参照し、「北殿」を神殿とし、「寝殿」を拝所、「東対」「西対」をそれぞれ東西禮殿御料屋とする予定です。