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世界遺産 下鴨神社(しもがもじんじゃ)賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)

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 正月と御粥神事、節分の御供えー餅について

御供えと云っても多種あり、ここではお餅のことについて記しておきましょう。

 「唐戸の餅」について、ずっと以前にこの欄で記したようにも思いますが、いずれにしろ正月風景のなかのことで十分ではなかった気がしますので、もう一度正月の御供えのお餅それに、御粥神事、現在では御粥祭と呼んでいますがそれに節分の日の御供えのお餅について記しておきましょう。元々、この三つのお祭は一つでした。また、古い御供えの目録には、餅を「モチヒ」とあります。古語辞典などには、正式には餅を「モチヒ」と云うとあります。古代、稲は神々が宿られる依代でした。その稲を格納する倉を「ミシネノオクラ」と云って社殿のはじまりと考えられています。稲は、命をつなぐもっとも重要で、いのちの根源と考えられていたからです。「ヒ」は、神霊の霊であり、霊魂のことです。よって稲を稲魂と考えられていました。

平安時代、ゴチソウと云えば、アワやヒエを加えた五穀の御飯など、御飯の種類が多いことでした。そのなかに餅も含まれていました。古い時代の御供えの調理法は、煮ること、蒸すこと、炒ることでした。そこえこねる、とかあえる、つくなどの調理法がうまれ今日まで伝えられています。やがて、平安時代末ごろになると、モチ米をつくだけではなく、粉にして団子にするなど加工に広がりがみられますし、鎌倉時代になると油であげるなどの調理法に展開しています。

下鴨神社は、正月の御餅を御供えするのは―唐戸の餅、と呼んでいるように御供えする場所を表しています。御餅は、直径三十センチほどのセンベイようの丸形のモチを七枚重ね、その上に小判型の薄いモチを五枚、さらにその上に菱形の薄いモチを三枚、重ねます。七、五、三に盛り合わせ高杯に載せて唐戸の両側に置きます。唐戸、と云うのは、御本宮の前、祝詞舎のその前の御扉のことです。古代、神まつりの場に依代としておかれた姿を今に遺しています。七、五、三に盛られるのは、奈良時代、陰陽道の影響によるものと云われています。

一方、御粥神事は、粥というのは、ドロドロのご飯のことではなく炊飯のことです。ご飯と目録にあれば、それは炊飯したご飯を水でさらしもう一度蒸したものを云います。御粥神事には、炊飯を御供えするところから、その名があります。

旧暦の時代は、冬至が一年の終りで御薬酒神事がおこなわれた翌日の節が今日の節分ですから正月神事の一環でした。御供えも歳旦祭と同じように御供えされていました。五穀の御飯と「牛の舌」を五枚重ねます。それをコヨリで括って台盤に載せます。。五穀の御飯も牛の舌もモチヒとして御供えします。ただ、節分のみ「唐戸の餅」の小判型の御餅を牛の舌と呼ばれていました。おそらく、格好が似ているからではありましょうが、牛は丑で言社との関わりがありそのように呼ばれました。このことは、別に記したいと思います。



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