平成30年(2018)は、慶応4年(1868)9月8日に、明治、と改元されて150年となります。
その歴史の大きな転換日となったのは、文久3年(1863)3月
11日の孝明天皇の鴨社御祈願行幸ではないかと思います。
さきがけとなるのは、嘉永3、4年、度重なる風水害、安政元年の大地震、安政五年の疫病の大流行、そこえ黒船来航による国難等々、大変な時期であったと思われます。
御在位は、天保2年(1831)7月22日御誕生のうえ御寶算36年のうち21年間でありました。
鴨行幸のまえ嘉永7年(1854)3月3日、動乱のもととなった日米和親条約締結直後の4月6日、京都市中の大火により内裏が類焼炎上するなど、大変なときでした。歴史上の記録には、この程度にしか記されていませんが、詳しく記録を調べてみると、焼失の町数は、190.社寺24.家数5千軒超。北は、今出川、南は、下立売、東は、鴨川から西は、千本までの広範囲に焼亡したとあります。
さらに詳細な記録には、孝明天皇は、即刻、下鴨神社へ御避難になったとあります。また氏人の留めには、常に輿にてご来訪になられるのにこの時ばかりは、警固もなく、ごく近臣の数人で常のお姿のまま徒歩で、御自ら三種の神器を捧げられてご来訪になり、公文所へ大声で声をかけられ、常に御祈願行幸のせつなど御休所となる神服殿へ氏人が御先導の間もなくお入りになった、とあります。
御自らは、神服殿を仮御所とされ、皇后さまは、細殿御所、のちの明治天皇の祐宮さまは、三井社舞殿の仮御所、和宮内親王さまをはじめ王女さま、宮さま等々は、禰宜、祝(はふり)の亭を数ヶ月間、仮の御所とされていました。
孝明天皇は、御在位中三十六度に及び宣命を奉り国事安寧の御祈願をされるとともに皇后さまは、女房奉書をもっていとまなく御祈願をなされています。
文久3年3月11日に御親拝のせつには、御生神事(みあれしんじ)の唐鞍を奉られました。当日は、小雨模様であったようですが、そのせつの御製には
異船の治まることをさらにいま
ふかくも頼む鴨の御社