御祭神は、大山咋神。例祭日は、四月十四日。明治十年(一八七七)三月二十一日、摂社七社の内、第六社として制定される。社殿は、明治四十三年四月八日、旧法により特別保護建造物に指定。鎮座場所は、旧鴨社神宮寺旧跡内。創始の年代は、不詳。以上のように、明治二十七年『賀茂御祖神社御事歴調記』に記録されています。
その後、昭和三十四年・第三十二回式年遷宮により社殿造替のため、昭和二十年代末に社殿を撤去したものの用材不足で新殿の完成をみずまま現在に至り御神霊は、摂社・三井神社中社へ移御されています。
ところが、御祭神についても、慶応四年(一八六八)、太政官神祇局調べまでは、『二十二所社』の神々でした。
明和七年(一七六四)、当時禰宜・俊春と、その子・俊永禰宜の二代にわたって鴨伝承や歴史的資料、記録類を集成して寛政十一年(一七九九)に完成した『鴨縣纂書』(烏邑縣纂書、との名称もあります。)には、「山王ヲ遥拝ノ所也。二十一庚申伝アリ。」と、御祭神を記しています。
氏人は、そう信じていました。「二十一庚申」の庚申とは、大伊伎命のことです。本宮御祭神・賀茂建角身命の氏始祖・神皇産霊尊・天神魂命から始まり、賀茂建角身命の子・玉依彦命、その十一世の後の大伊伎命、その子・大屋奈世・馬伎命を祖神とする鴨氏の祖先の神々を祭祀し御祭がおこなわれてきた社です。
鴨氏二十二係累としながら「二十一」と、敢えてしたのは、隣接に神皇産霊尊をお祀りする澤田社があったからです。よって、第二十三回・正徳元年(一七一一)、式年遷宮による造替のおり両社は相殿になりました。
御祭神の伝承を詳しくみると、弘仁六年(八一五)ごろ、嵯峨天皇の勅により『新撰姓氏録』編纂のため、弘仁二年ごろ鴨氏が提出した逸文と思われる『新撰姓氏録抄録』と『新撰姓氏録』には、氏人たちの祖先の神々を記録しています。
『新撰姓氏録』より、
鴨県主(かものあがたぬし) 開化天皇(かいかてんのう)の皇子の彦坐命(ひこにますのみこと)の譜。
鴨君(かものきみ) 開化天皇の皇子の彦坐命の譜。
鴨部(かもべ) 崇神天皇から贈られた姓の譜。
賀茂県主(かものあがたぬし) 賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)の譜。
鴨県主 賀茂建角身命の譜で神武天皇より贈られた姓の譜。天八咫烏(あめのやたからす)と号す。
矢田部(やたべ) 鴨県主・賀茂建角身命の譜。
丈部(かけべ) 鴨県主・賀茂建角身命の譜。
西泥部(にっちべ) 鴨県主・賀茂建角身命の譜。
祝部(はふりべ) 鴨県主・賀茂建角身命の譜。
賀茂朝臣(かものあそん) 神魂命(かんだまのみこと)の譜で太田田禰古命(おおたたねこのみこと)の孫・大賀茂都美命(おほかもつみのみこと)の譜。
鴨部祝(かもべのはふり) 神魂命の譜。
『新撰姓氏録抄録』の「賀茂朝臣本系」より、
鴨藪田君(かものやぶたのきみ) 神魂命の譜で大等ヒ古(おほとひこ)が祖。
伊予国鴨部首(いよのくにのかもべのおびと) 神魂命の譜で御多弖足尼(みたてのすくね)が祖。
酒人役君(しゅえだのきみ) 神魂命の譜で忍瓶足尼(おしみかのすくね)が祖。
讃岐国賀茂宿禰(さぬきのくにのかものすくね) 神魂命の譜で忍瓶足尼が祖。
同国鴨部役君(さぬきのくにのかもべのえだちのきみ) 神魂命の譜で忍瓶足尼が祖。
大和国賀茂宿禰。同国鴨部役君 神魂命の譜で忍瓶足尼が祖。
阿波国賀茂宿禰。同国鴨部役君 神魂命の譜で忍瓶足尼が祖。
遠江国賀茂宿禰。同国鴨部 神魂命の譜で小忍瓶足尼(おおしみかのすくね)
土佐国賀茂宿禰。同国鴨部 神魂命の譜で小忍瓶足尼が祖。
伊予国賀茂朝臣。同国賀茂首(いよのくにのかものおびと) 神魂命の譜で小乙中勝痲呂(おとなかのすぐりまろ)が祖。
『新撰姓氏録抄録』「鴨県主本系」より
鴨荒熊首(かものこうじんのおびと) 賀茂建角身命の譜で大伊之伎命(おほいのきのみこと)の子・大屋奈世(おほやませ)が祖。
鴨秋首(かものときのおびと) 賀茂建角身命の譜で大屋奈世が祖。
鴨新木首(かものにっきのおびと) 賀茂建角身命の譜で大伊之伎命の子・馬伎命(まきのみこと)が祖。(『新撰姓氏録』「雑姓」)より
鴨長屋首(かものながやのおびと) 賀茂建角身命の譜で大伊之伎命の子・馬伎命が祖。
鴨多多加比首(かものたたかひのおびと) 賀茂建角身命の譜で大伊之伎命の大屋奈世が祖。
鴨麻作連(かものあさつくりのむらじ)賀茂建角身命の譜で大伊之伎命の長屋が祖。
とあり、多くの場合『二十二所社』あるいは、『惣(祖)社』と称し鴨の氏神の始祖あるいは、祖先神として祀られています。
日吉社との社名は、先の『鴨縣纂書』によると「往古は、蓼倉郷の田地の字、山王塚が旧地」とあり、それに因ると思われ、旧地(現在、不明)が開発をみて、この社が遙拝所となっています。
また、第八回・建仁元年(一二〇一)、式年遷宮のため元歴元年(一一八四)か、建久七年(一一九六)ごろ、社殿の位置をしめすため社頭図が作成され、それを鎌倉時代に式年遷宮のため書写したとする『鴨社古図』には、鴨社神宮寺の域内東方に二社の社殿が描かれています。このことについて、『鴨縣纂書』は、「北、日吉。南、沢田なり。旧図(鴨社古図のこと。)には、此の二社、神宮寺構の内にあり」とあります。去る平成二年より糺の森環境整備のため発掘調査により昭和二十年代に撤去された社殿跡が確認されました。