『三代実録』元慶三年(八七九)九月二十五日のくだりに、この夜、鴨川の辛橋に火災があり大半が焼ける、と記録されています。この辛橋とは、唐橋のことです。平安時代の資料『西宮記』に、天慶二年(九三九)四月十四日の賀茂祭は、終日大雨だった。第十三代・賀茂斎王・韶子内親王(しょうこ)の社参は、鴨川が氾濫して渡れず。また『永昌記』の嘉承二年(一一〇七)四月十七日、今日は賀茂祭である。白河院が御見物のため、神舘の下の橋まで御幸される、などとある橋のことです。
唐崎社については、『左経記』の長元八年(一〇三五)四月二十五日の記事に、先の第十六代・賀茂斎王・選子内親王の女房が言うには、斎院を去り給うときの例として、辛前社(からさきのやしろ)にて御祓いが有る由。もしその御祓いをされや否か、お悩みになっておられるのならば、延引しても障りのことを考えると御祓いをされたほうがよい、とのことです。とあります。また『中右記』寛治五年(一〇九一)十月十五日には、第二十二代・齋子内親王の賀茂斎王退下の解齋(げさい)のこと。『同記』長承三年(一一三四)九月二十五日には、第二十九代・禧子内親王の賀茂斎王退下の解齋による神祭の記録がみえます。唐崎社は、賀茂斎院の賀茂斎王が退下されたとき解齋の神祭ため参拝される神社でした。
『山槐記』応保元年(一一六一)九月二十六日の第六回・式年遷宮のため平安時代末期の禰宜・祐直が当時の社殿すべてを記録した『鴨御祖神殿等事』(「神殿舎屋之事等」と同書)によると「神舘御所」の末社として「唐崎社 拝殿、庁屋、着到殿、鳥居二口、瑞籬付中門、橋二所」と記しています。これによると「橋 二所」とあり、そのうち一所が「唐(辛)橋」ということです。
『賀茂史略』(上賀茂社家の編纂になる編年資料集)、『賀茂史綱』(下鴨社家祐之を中心に編纂した編年資料集)また、下鴨の氏人たちが社の記録を採り留めたのを江戸時代・明和七年(一七六四)、当時の禰宜・俊春とその子、俊永禰宜の親子二代によって寛政十一年(一七九九)、集成、編纂して完成をみた『烏邑縣纂書』(略して「縣纂書」と呼ばれている。)や、『親長卿記』などの史料によると、文明二年(一四七〇)六月十四日、応仁・文明の乱の兵火にて、賀茂御祖神社や糺の森の「宝殿、舎屋、文物等事々に焼失、紛失す。」と、大きな被害を受けたことが記されています。
唐崎社もまた、被害をうけ社殿等すべてが焼亡してしまいました。以降は、御手洗の池の解除社・井上社とは、御祭神が瀬織津姫命という同神であったところから合祭になりました。当初、唐崎社は、神舘御所の官祭の神として祀られていましたので官祭の解除を。氏神の祭の解除と分けて神事がおこなわれていましたが、元禄七年(一六九四)四月十八日、賀茂祭(葵祭)、御生神事(御蔭祭)の行粧再興により、夏越しの神事など氏神の祭であっても同様に今日まで井上社にて解除の神事をおこなっています。
唐崎社の旧地は、かつて「糺河原」と呼ばれていた鴨川と高野川の合流する三角州に架けられた橋の東詰が旧地です。ところが、明治四年・上知令の対象となり全てをなくする結果となりました。
その後は、氏神の夏越しの神事などのせつ、唐崎社の旧地の遙拝を旧御蔭通りの紅葉橋よりおこなっています。今回、第三十四回・式年遷宮事業の一環として、紅葉橋遙拝所を再興整備し、歴史と伝統を継承する事業と予定しています。