またまた、間があいてしまいました。もう少し、現在の葵祭について、進めてみたいと思います。
実は、葵祭と言ったり、賀茂祭と言ったりしますが、判然とした区分はありませんが、官祭として表現する場合は「賀茂祭」と記し、氏人たちが「祭」とか「鴨」「賀茂」の祭などと表す場合は、「葵祭」と呼ぶようにしています。今日のようなときは、公の祭として表現する「賀茂祭」と。神社が伝統を保持すべき祭であったりする場合は「葵祭」と標記しています。
賀茂祭の行粧は、文亀二年(一五〇二)四月十九日を最後に応仁・文明の乱のため中絶しました。再興になったのは、一九二年後の元禄七年(一六九四)四月十八日、のことです。その間は、行粧ばかりでなく関連の神事、祭儀は、全て中絶しました。唯一継承されたのが「勅使参向・御飾の儀」でした。
この祭事は、明治初年以前の旧儀の時代の賀茂祭の一つのお祭でした。いったいどのようなお祭であったか資料をたどってみましよう。
賀茂祭「被送御装束宣旨次第」という資料に次の通り記されています。文章は、読みやすく現代風に直しました。
慶応四年(一八六八)九月八日が明治と改元になった元年です。ですから、旧儀の最後の賀茂祭は、慶応四年となります。少し遡って文久三(一八六三)度をみてみましょう。
内蔵寮御使 近衛府御使
宣旨使参向次第
宣旨使は、舞殿の北に立つ この時 副使は 宣旨筥を執り使に授く
是より先に 祝 禰宜等は中門の辺に着座す
次に 使は 宣旨筥を案上に捧る 案は予め中門の石敷に設て置く
次に 祝 禰宜は 神前へ参る この時 所司は 宣旨筥を執り従う
次に 宣旨を詔戸舎の案上に供る
両官二拝す
訖て 中門の外にて 宣旨使と相揖す
是より 宣旨使、副使等 勅使殿に着く 饗膳 三献を役して御所へ帰る
次に、次第書には「御所へ帰る」とありますが、引き続いて、儀礼がおこなわれています。その儀礼も「御使」が作法せられる西東御本宮の「御飾」祭事の次第です。これより先は、内陣の作法とはいえ氏神祭祀に関わる祭事であったのではないかと思われます。その次第は長くなるので略します。
明治二年(一八六九)から葵祭とはいえ、さまざまな分野で廃止や改正が進みました。東京へお出向きになったことで明治三年の葵祭は、近衛使を廃止して、京都留居官を宣命使として差遣されるなど大きな改革がおこなわれました。それは、宮中の祭祀から神祇官の祭祀に替わったことを意味します。
その時点で「勅使参向・御飾の儀」は、葵祭の間近の立夏の日を夏の「更衣祭」とし、秋の賀茂の臨時祭と相嘗祭の前の立冬の日に冬の「更衣祭」として齋行することによって長い伝統を保とうとしたのでした。