御供えとは、御飯のことです。御飯と云えば御供えのことです。御供えを調理し備進する氏人の手控えをみると「御飯は、御厨(みくりや)みつくろふ」とあります。そうして「御菜は、膳部(かしわべ)みつくろふ」としています。御飯が主でお菜が従でした。
御供えには、決まりがなく日常私たちの食べている物と同じでよい、と言うことです。しかしよく考えてみれば季節の物もあれば何でも良い、と言っても古くから「初物は、神さん、仏さんにお供えしてから」とか「珍しい物は、まず、御供えして」と、言われてきました。それだけに、重く感じられます。それゆえ「御飯は、御厨」「御菜は、膳部」との決まりが生まれました。更に「御菜は、」は、魚、鳥や肉類を調理し調達するのも膳部ですが、贄殿(にえどの)と言う供御所(くごしょ)の大炊屋で調理しました。穀物類や根菜類の調理は、大炊殿で御厨の氏人たちが勤めました。
平安時代に源 順(みなもとのしたがう)が、わが国初の分類体漢和辞書『和名類聚抄』を編纂しました。その「上粟田郷 髙野」のくだりに『正倉院文書』の「人々啓状」の天平宝字五年(七六一)八月二十七日に「下賀茂 馬養」(まかい)の文書が収載されています。
それには、「謹啓 可刈御田事 合二町之中 南牧田一町 埴稲依子 北牧田六段 埴越特子 四段荒」とあります。意味は、御田を刈るべきこと。あわせて二町のうち南牧田一町は、「埴稲依子」(米の種類の名称(読みは、古代語のため不明)、氏人たちは「あかに」とよんでいる。)北牧田六段、「埴越特子」(米の名前、読み方、不明。氏人たちは「こしに」とよんでいる。)、うち四段は、荒れ果ている、との内容です。
「南牧田」「北牧田」とあるのは、現在の上高野荒巻町(上・下)ではないか、と思われます。場所は、東山三十六峰の二番目の山、みあれ神事がおこなわれる御蔭山の麓。近くには、鴨氏の禰宜の里亭(鴨氏の集落のこと。)であった氷室山や氏人の集落の里堂(さとんど)が現在なお遺されています。この地域は、『京都市遺跡地図台帳』に記されている縄文時代から古墳時代に及ぶ散布遺跡地帯です。かつて、古代米の名称ともなった高野川の古名・埴爾川(はにがわ)のほとりの神饌田で今なお米つくりをしています。年中の御供え用です。
ご家庭の神棚の御供えは、お米とお水、お塩ではないかと思います。そのお米は、お米を水で洗ったお洗米ではないかと思います。これは、古代の米の食べ方のなごりです。現在は、籾(もみ)からお米を取り出しますが、古代は、固い籾のままでした。籾のお米を一夜か二夜、水につけておき、柔らかくしてすりこぎ(棒状の木の枝のこと)ですりつぶし、上布(麻など目のあらい布のこと)でこして分離します。お米は、液体になっています。これを「しとぎ」と呼んでいました。古代のお米の食べ方です。さらに一夜酒あるいは、しとぎ酒とも称して、このしとぎからお酒を醸しました。現在でも、御供えには、御米とともに穂を幾房か、御供えすることを例としています。
後に精米の技術が進歩して精米したお米を炊くようになりました。御飯は、水で炊き、焚きあがったのを水でさらし、さらに蒸し器で蒸したものを云います。水で炊いたままは、おかゆ、と呼んでいます。
葵祭の御供えは、御飯です。葵祭の次第書に「宮司、御箸を発つ」と云う作法があります。それは、この御飯を多くの人々と共に食するので「お箸を立てます。」と云うことです。お祭のあと御飯を一かけずつ「神餕」(しんせん、神さまからのくだされもの、との意)として包装し「禁裏樣」とか、神領地の大名などに届けていました。現在は、希望するすべての方々へお渡ししています。