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世界遺産 下鴨神社(しもがもじんじゃ)賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)

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『泉亭旧図』『河崎祭因由』・鴨長明と河崎社鴨社資料を読む 4

江戸時代、享保年間、梨木祐之という本宮禰宜がいました。『日本逸史』『大八洲記』等々、たくさんの資料を編纂したり将軍綱吉に『日本書紀』など古典を講義したりした人物で鴨社学問所の教授でもありました。なかでも鴨社の神道説を梨木流神道説と称して解いたことで知られた神主であり学者でした。著述のなかに『泉亭旧図』と称する絵図とそれを解説した著述があります。

『泉亭旧図』という資料は、本宮御祭神の賀茂建角身命を始祖とする鴨氏の末裔が鴨社領の粟田郷を経済的、祭祀的に統治していた同族の集落の範囲を絵図で示す地誌でもありました。

鎌倉時代の初め禰宜という世襲制の職称の家が二家と定められました。その禰宜家が泉亭と梨木でした。その泉亭に襲蔵されていた「鴨社領粟田郷」の絵図の写本です。

賀茂御祖神社領は、承和十一年(844)十二月二十日付、太政官符により制定されています。そのうちの山城国粟田郷の絵図でしたが『三代実録』によると、元慶四年(880)、上下の郷に分けられたことが記録されています。絵図はその下粟田郷の絵図です。鴨社資料には、「旧図」とか「泉亭旧図」として登場します。しかし今、本図の所在は不明で祐之の写本のみ明らかとなっています。おそらく本図は、たび重なる乱の兵火によって焼失か、紛失したと思われています。

祐之の写本「泉亭旧図」は、「山城国下粟田郷」の絵図をもとに下粟田郷河崎(こうさき)の里の鴨氏の邑(むら)の祖(総)社と氏の舘を書き入れた絵図のことです。この絵図は、昭和六十年九月、「鴨社古絵図展」を開催し図録でも公開しました。

その下粟田郷河崎里に祀られていた神社は、里の名前により河崎社と呼ばれていました。御祭神は、賀茂建角身命系譜の始祖神ですと祐之は記しています。また舘は、『明月記』(藤原定家の日記、治承四~嘉禎元)や『百練抄』(正元元~文永十一の間に成立したと推定されている日記)に「鴨の禰宜祐兼、祐綱の泉閣へ後鳥羽上皇が度々御幸された」と記されています。つごう三十五度ともあります。それらの舘のなかに鴨長明の生家、南大路家の亭も記しています。

室町時代の『親長卿記』文明六年(1474)八月一日のくだりに、先年の応仁・文明の乱によって略奪、放火にあった河崎の集落を守るために田中の構と称する防護壁を築いたとあり、その田中の構は、『実隆公記』文亀三年(1503)五月二十四日のくだりに、また乱により集落が襲われ兵火にみまわれたこと。その後も享禄三年(1530)十二月二十九日(『二水記』)に襲撃をうけ集落がことごとく焼き討ちにあい壊滅状態となったと記されています。天文五年(1536)七月二十二日(『鹿苑日録』)、さらにまた乱の兵火にあい、田中構えも河崎社も壊滅したとあります。たび重なる乱の兵火によって崩壊した集落は、本宮糺の森西方のやはり応仁・文明の乱の兵火で焼亡した鴨社神舘御所跡へ氏人の村ごと移住し、河崎社も天明五年(1785)、御所跡へ遷御されたことなど、祐之は『河崎祭因由』に記しています。

ところが、大正十年(1921)九月、京都市都市計画法によって、河崎社境内が下鴨本通となり、鴨社神宮寺跡の賀茂斎院歴代斎王神霊社へ合祀されました。昭和三十三年、戦後の混乱期の遷宮事業により社殿造替のため、今日まで撤去されたままとなっていたところを、平成二十七年・第三十四回・式年遷宮事業の一環としてようやく、古儀により旧鴨神宮寺跡にご再興になりました。


末社 河崎社

御祭神 神魂命 賀茂建角身命 玉依彦命 

大伊乃伎命 大屋奈世命 馬伎命

例祭  七月七日

「こうさきのやしろ」と、読みます。元の社地は、現在の京都大学の辺りから田中神社一帯にあった鴨氏の集落の跡の社の旧地が

現在の知恩寺の境内に鴨神社して奉斎されています。



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