古くから鴨の暦では、冬至から新年のお粥神事までが正月となっていました。
新暦の現在も暮れの十二日、御薬酒若水神事から新年十五日の御粥祭までが正月祭事の期間です。御本宮の祭事、宮主社の神事のほか、堂、祖社、神領地総社、宇賀神の祭などがおこなわれます。新暦の時代になると月日の変更などにともなって何時の時代からか、祭の意義を見失い祀られなくなりました。
一つの例をあげますと、おそらく皆様も聴いたことない、と仰るかもしれませんが、河合神社北側の鴨の神宮寺の寺域に祀られていた明神さんのことです。明治元年の神仏分離令により堂塔伽藍が全て撤去されました。そのなかに川の明神さんのお社が含まれていたことです。川の明神さんとは、鴨川、高野川の川の神さんのことです。両河川とも古代からあばれ川として知られていました。毎年、川の氾濫により大きな被害や犠牲をうけていたので里人たちが荒ぶる川の神の御霊を鎮めるために殊に手厚くお祀りされていました。はたして、堂なのか社なのかは、今ではわかりません。里人にとっては、神さんでもあり、仏さんでもありました。それゆえ、おもく考え思案の結果、分離令の対象とみたのではないかと思われます。明神さんの社殿は、その令により寺院の伽藍とともに撤去したことになっています。里人たちにとっては、今の今まで拝んでいたお堂や殿舎を壊しがたく、川の明神さんは内々で村中へご移動したと言うことです。月ごとのお祭や正月の神事も勤めたと、伝えられています。翌明治二年、神宮寺の全てが撤去され分離令が成立したとされる直後、里人たちは、神宮寺旧地の元のお社の跡へ御動坐し、お戻したと明治二年刊行の「山城國愛宕郡下鴨村誌」に記されています。神仏分離令による結末には、こうした例外もあったようです。
川の明神さんのお社の正月の御供えは、しとぎのダンキと一夜酒それに、カチクリでした。